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見えないものを、大切にできる人へ——石に刻まれた、祈りのかたち

7月31日
読了時間: 5分
日光の奥の方にいる狛犬さん(私のお気に入りの1枚)
日光の奥の方にいる狛犬さん(私のお気に入りの1枚)

便利になっていく世の中で、目に見えないものは、後回しにされがちです。

 

数えられるもの、値のつくもの、効率のよいもの。そうしたものが優先され、手で触れられないもの——祈りや、願いや、誰かを想う気持ちは、いつのまにか、暮らしの隅へ追いやられていく。

 

けれど、本当に人を支えているのは、案外、その見えないもののほうなのかもしれません。

 

今日は、そんなことを考えるきっかけになった、道ばたの小さな石の話をさせてください。

 

 

手を合わせた人が、いた

 

古い道の辻や、集落の入り口に、苔むした石塔が立っていることがあります。

 

庚申塔(こうしんとう)と呼ばれるものです。文字も読めなくなり、名前を知る人も少なくなりました。多くの人は、気づかずに通り過ぎていきます。

 

けれど、その石の前に立って、少しだけ想像してみてください。

 

三百年前、この同じ場所で、手を合わせた人がいました。旅の安全を願った人。家族の健やかさを祈った人。病が入ってこないように、事故が起きないように、と心を込めた人。名前も、顔も、もう誰にもわかりません。それでも、その祈りは、石塔というかたちになって、今もそこに立ち続けています。

 

見えないはずの祈りが、目に見えるかたちで、時を超えて、そこにある。私は、そのことに、静かに胸を打たれます。

 

 

眠らずに、夜を明かす

 

庚申塔は、もともと、中国から伝わった「庚申信仰」に基づくものです。

 

庚申(かのえさる)の夜、人の体の中にいる虫が、眠っているあいだに天へ昇り、その人の行いを天に告げる——だから、その夜は眠らずに過ごせば、長く生きられる。そう信じられていました。

 

人々は、庚申の日の夜、集まって、供え物をして、語らいながら夜を明かしました。「庚申待(こうしんまち)」と呼ばれる集まりです。

 

想像してみると、それは、とても温かい光景です。特別な力を求めたのではなく、ただ、身を慎み、長く健やかに生きられますように、と願う。人々が寄り添い、夜通し語り合う。その素朴な祈りの積み重ねが、あの石塔を建てさせたのです。

 

石に刻まれた三猿——見ざる、言わざる、聞かざる——も、そうした心のあらわれでした。よけいな悪いものを、見ない、言わない、聞かない。身を清らかに保とうとする、慎みのかたちです。

 

 

石は、道しるべでもあった

 

やがて、この庚申信仰に、道案内の神さまである猿田彦神(さるたひこのかみ)が結びついていきました。

 

だからでしょうか、庚申塔は、しばしば道しるべを兼ねていました。「右 ○○みち 左 △△みち」。文字の読めない旅人にも、行く先を教える。夜道の目印になり、迷った人を、正しい道へと導く。

 

祈りの石塔が、同時に、人を導く道しるべでもあった。

 

これは、とても象徴的なことだと、私は思います。人の心に灯る祈りは、めぐりめぐって、誰かの道を照らす。自分のために手を合わせた祈りが、通りすがりの見知らぬ人の、迷いを解く道しるべになる。目に見えない祈りが、目に見えるかたちで、人を助ける。

 

見えないものを大切にすることは、決して、非現実的なことではありません。それは、めぐって、確かに人を支えているのです。

 

 

今も、誰かが手を合わせている

 

道を歩いていると、こうした石塔に、小さな屋根がかけられていたり、赤い布が着せられていたりするのを、見かけることがあります。

 

屋根は、雨風や雪から石塔を守るためのものです。石は硬く見えても、長い年月のうちに、少しずつ表情を失っていきます。刻まれた文字や姿が、読めなくなっていく。だから、屋根をかけて、お守りする。それは同時に、「これは大切なものです」という、静かな意思表示でもあります。

 

赤い布は、お地蔵さまの赤い前掛けと、同じ心から来ています。赤は、古くから、災いを遠ざける色とされてきました。子どもを守り、厄をはらう色。そして、その布は、願いを込めて、あるいは願いが叶ったお礼として、手作りで捧げられることも多いのです。

 

つまり、屋根や赤い布がかけられた石塔は、三百年前に建てられて、そのまま忘れられたのではない、ということです。代々の人が、雨から守り、布を着せ替え、手を合わせ続けてきた。あの屋根と布は、今もなお、誰かがこの石を大切に想っている——その、生きた証なのです。

 

見えないはずの祈りが、屋根となり、赤い布となって、目に見えるかたちで、今も受け継がれている。そのことに気づくと、なんでもない道の風景が、少し違って見えてきます。

 

 

木も、同じでした

 

石だけではありません。

 

昔の人は、大きな木を、簡単には切りませんでした。ご神木と呼び、手をつけずに残してきた。切らねばならないときは、手を合わせ、塩や酒を供え、感謝と詫びを告げてから、斧を入れたといいます。

 

木を、単なる材料としてではなく、長くその土地を見守ってきた、命ある存在として敬っていたのです。

 

見えるものだけを数えるなら、それはただの一本の木です。けれど、そこに手を合わせる心があるとき、木は、土地の記憶そのものになります。何を大切にするかは、目に映るかたちではなく、それを見つめる人の心が決めるのだと思います。

 

 

受け継いでいきたいもの

 

私たちは、「光の言葉」を通して、人の心が豊かになることを願って、活動を続けています。

 

心が豊かになるとは、たくさんのものを持つことではありません。目に見えないものの価値を、感じ取れること。誰かの祈りに、気づけること。手で触れられないものを、大切にできること。それこそが、心の豊かさなのだと、私は思っています。

 

道ばたの小さな石は、そのことを、静かに教えてくれます。

 

三百年前の人々が、この土地で、健やかな暮らしを祈った。その見えない心が、石塔となって、今も残っている。私たちは、その祈りを受け取り、そして、次の世代へと渡していく者でありたいと思います。

 

古いものを、ただ懐かしむのではありません。そこに込められた、人を想う心、土地を敬う心を、未来の子どもたちへ、受け継いでいく。

 

もし、道の辻で小さな石を見かけたら、少しだけ、足を止めてみてください。そこには、名も知らぬ誰かの、あたたかな祈りが宿っています。その祈りに気づけたなら、あなたの心も、少しだけ、豊かになっているはずです。

 

見えないものを、大切に。それが、変わりゆく時代の中で、人が人らしくあるための、一つの道しるべなのだと思います。

 

あなたの通う道にも、名も知らぬ誰かの祈りが、そっと佇んでいるかもしれません。

 

今日も、心に光を。

 

 

T.Matsunaga

Founder & Representative / Best Brillanz

 

 



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